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【Hakubi Live Stream 2020 NOISE FROM HERE】ライブレポート

 

7月5日にHakubiが行なった、自身2度目の配信ライヴ。『NOISE FROM HERE』と冠された本ライヴは、COVID-19の拡大防止のために自粛が続くライヴハウス、そして何より鳴る場所が極端に制限されてしまったHakubiの楽曲を解き放つために行われたものである。「NOISE」とは、「雑音」といった自己卑下的な意味合いではなく、今を覆うモヤモヤを切り裂く爆音を鳴らすのだという意志の表れなのだろう。逆に言えば、Hakubiにとっての音楽とは、いつだって自己葛藤と自己嫌悪と無力感と世界との摩擦を振り切っていくために鳴らされてきたのである。世界の喧騒を超えるほどのノイズを放つことで雑音を殺し、心の静けさを守るーーそれがHakubiにとっての音楽なのだと。そんなことが伝わってくるタイトルであり、ライヴであった。Hakubiのホームグラウンド・京都MUSEで行われたことも、自分の居場所を自分たちで守ろうとする意志の表れだろう。

 

18時30分オンタイムで映像がスタートして、ゆっくりと板についた片桐、マツイユウキ、ヤスカワアル。3人ステージ中央を囲むバンドセットが表すのは、「ライヴを待っている誰かのために」という動機よりも、ひたすらバンドで音を鳴らす喜びと、自分たち自身の心に沈殿する鬱屈を爆破する気持ちよさに向き合おうとする気持ちが伝わってくる。「やるぞ」という片桐の言葉に続いて放たれた“午前4時、SNS”で<いつも同じような毎日繰り返しては/消えたい 消えたい 消えたい>と歌われるように、ぽっかりとした虚無の中でもがくようにして存在証明を求めて、だけど自分の存在を諦めきれない自分こそが自分を苦しめ続けているのだということもよくわかっているのが片桐の歌である。希望が消えてくれないから自分も消えなくなるという心の動きが、歌から叫びになってバーストしていく。ライヴ冒頭からトップギアーーというか、曲が先天的に持っている痛切さが突き刺さってくる。片桐の顔は映像の中でぼやけているものの、歌の目つきはいつにも増して鋭利である。

 

上記したように、Hakubiの歌は、片桐が自分の心の部屋を閉め切りながら、しかしその部屋を爆破するための爆弾を製造するようにして放たれている。自分で閉じながらも、その部屋の外に出るために叫ばれている。引き裂かれているし倒錯しているが、しかしそれが矛盾としてではなく自己証明になるのがロックの根源的な回路であり、Hakubiの歌の心臓である。そういう意味で、アーティストの目の前に人がいないという意味で一種の閉鎖性を持つ「配信ライヴ」は、孤独をガラス張りにして見せるHakubiの音楽の核心にあるものをむしろ浮き上がらせていくところが面白い。たとえばリアルなライヴは、場所にしろ人数にしろ限りがあることや、コピーのきかない体験の一回性に価値があった。しかし配信ライヴは(基本的に)誰でも見られるものだ。つまり価値の在り処や意味性からして似て非なるものなのだが、Hakubiの場合は、誰もがひとりぼっちのまま没入できる歌の特徴がひたすら伝わってくるという意味で、非常に本質的で「ただの最高のHakubi」だった。

 

ぽつりぽつりと片桐が短い言葉を呟いてから矢継ぎ早に披露されていく“賽は投げられた”、“辿る”、“Dark.”。その中で気づくのは、話す時には声が嗄れている様子であるにもかかわらず、歌に入った瞬間に何かから解き放たれるようにして声が一気に跳躍する。ひとえに集中力の凄さというか、没入するスピードがあまりに速いというか。何しろ歌の瞬発力が高い。曲を経ていくほど語りかけてくるような調子に変貌していく歌そのものに、このライヴに誰よりも高揚し興奮している片桐の姿が映っている。バンドのアンサンブルも、小綺麗にまとめるところが一切なく、ただただ前に向かって突っ走っていく。つんのめるギリギリのところで保たれているスピードがそのまま音の緊迫感になって響いてくるライヴである。

 

そして、初披露された新曲“大人になって気づいたこと”。タイトルそのまま、「大人になること」を通して失われていく蒼さと、大人になろうが一切救われない自身の孤独を訥々と吐露していく歌。同期のストリングスを用いたアレンジを一聴して観客のリアルタイムチャットで驚きの声が上がっていたが、その音色が大仰なものではなく片桐の声の温かい部分を増幅させる装置になっているのがよかった。大人になっていく、ただ無軌道に叫んでいるだけでは消せない感情も増えていくーー歌の根底に感じる鬱屈は変わらないまま、しかしより一層実直に生きていくことを見つめようとする歌には、従来よりも温かさが宿るようになった。バンドを続けていく、このバンドで進んでいく、生きていく。まさにこの配信ライヴがそうだが、Hakubiを遮二無二転がしていくのだと腹を括って歌い鳴らすことは、<死にたいって呟いてみる>と歌いながらも消せなかった「生きたい」という気持ちを受け入れていくこととイコールだ。青春と大人の狭間を示すHakubiの現在地であるとともに、歌で燃やすガソリンの種類が変化していく予兆も感じさせる新曲。それが“大人になって気づいたこと”だった。

 

“大人になって気づいたこと”を演奏し終わると、今度はおもむろにメンバーが退場。その足取りを追うと、楽屋スペースに無数のキャンドルが置かれており、アコースティックセットが用意されていた。配信ライヴだからこそ可能な、転換時間をカットしたアコースティックコーナーである。生のライヴと配信ライヴを混ぜて考えないことで、このライヴならではの一回性を産もうとする逆転のアイディアだ。この場面に、Hakubiのライヴとしての意味以上に、配信ライヴの可能性そのものを感じたのであった。そうして披露されたアコースティックヴァージョンでの“きみはうつくし”と“sommell”。ゆったりとした歌唱で改めて際立つのは、そのメロディの美しさだ。泣き喚くでもなく、しかしただ淡々としているわけでもなく、片桐のメロディが持つしなやかさが浮かび上がる時間。アコースティックセットの貴重さもさることながら、最たる感動は、そのメロディの力が浮かび上がってくる点にこそあった。

 

そうしたアコースティックセットを経て、再びステージへ戻った3人。ラストまで一気に披露された“ハジマリ”、“夢の続き”、“mirror”、“17”では、より一層エモーションを破裂させるようにしてバンドが一体になっていく様がその音から感じられた。

 

「何ヶ月も続いたよくわかんない日々。その途中で、『何もせずぼーっとしているのもいい、締め切りにも追われず人と顔も合わせず、誰かの言葉なんか気にせず、何もない世界も楽でいいんじゃないかな』なんて思いかけました。人の形をして息をしているだけの空っぽな存在になってもいいんじゃないかなとか。……でも、それじゃ生きてる気がしなかった。自分が自分である理由、目がある理由、鼻がある理由、心がある理由、頭がある理由、全てがわからなくなった。だから自分たちには音楽が必要です。ここいる理由を音楽にもらった。どんな時代になるかわからないけど、ライブハウスが好きだと、音楽が好きだと叫び続けます」――。

 

片桐が叫んだ言葉である。たったそれだけを表現するための、だけど「たったそれだけ」の中に生きる理由も叫ぶ理由も全部があるのだとのたうち回って伝えるためのライヴだったと言えるだろう。自分の人生と取っ組み合っては疲れ、絶望しては希望に気づき、歌うことで力にしていくーー心を閉じているはずなのに、「閉じている」ということを開けっぴろげにすることで繋がる明日がある。体の距離も心の距離も離れていく時代にあって、ますます増幅していく寂しさ、虚しさ。それを生きるためのエネルギーに反転させていくために、Hakubiの音楽は鳴り続けるのである。最後の最後にたった一筋の光を掴んだかのように鳴らされたアンコール“光芒”まで、画面越しの閉じた世界の中でこそ、その本質が明らかになるライヴだった。

 

文:矢島 大地